MR.RAF SIMONS INTERVIEW
30.08.2014

はじめに
これらはすべてELIMINATORによる翻訳です。
翻訳の専門ではないものの、これまで知る事のなかった内容が多く含まれた貴重な記事でしたので、是非みなさまにもご紹介したく和訳致しました。出来る限りオリジナル文章にそった言葉を選んでおりますが手前どもの英語力の限界もあり、書き手の心情を加味し表す事が出来ない部分もございます。何卒、ご容赦の程、お願い申し上げます(Fantastic Man14号は2011年9月に発売されたものです)。

Fantastic Man
The Gentleman’s Style Journal
Est.MMV
Issue No14

5月のある晴れた日曜日、RAF SIMONSはベルギーのアントワープにある自宅にて昼食の支度中である。「よし」。RAFが言う。「この料理はなんと呼べば良いのかな?どう思う?」。彼は前日に買った小さなサーモンの切り身を焼いている。そして彼は注意深く、皿にチコリの葉とレタスにトマト、少し火を通したピンク色のカクテルソースに覆われたエビと共にそれを盛りつけており、私達の間には2Lサイズのダイエットコークが置かれている。

このインタビューは、ミラノにて開催された2012SS JIL SANDERコレクションとパリにて開催されたRAF自身の2012SSコレクションの前に行われた。

「風変わりな一年になったよ」。RAFが言う。信じられない事だが2011AWショーの3日前に、彼のパートナーであり生産機能でもあるイタリアンカンパニーFUTURENETとの契約が突如終了、という事態に陥ったのである。これでは、開催場所を確保しているのも関わらずショーは出来ない。さらに販売するための商品はどこで作るのか? RAF SIMONSのショーは通常ではパリ・ファッションウィークのハイライトとも言える存在なのに!!これは過去10年の中で、初めての中止となるのか?

しかし奇跡的にショーは行われたのである。そして最大の評価を集めるというヴィクトリーを勝ち得たのである。2011AWシーズンのベストであると唱える人も多数、コレクションは新鮮にて力強い。そしてRAF SIMONSの初期の作品を思わせる”DEAD PRINCE COLLEGE”と命名されたコレクションは生産されるに至り、RAF SIMONSブランドは生き残った。しかし、これはデザイナー自身のたくましさなしでは実現出来なかった事である。

「ショーの後、本当に気分が悪かった。そして落胆させられた」。RAFは語る。「落胆しない方がおかしいさ。でも今は全て順調だ。仕事は再度うまくつながっているし、現在にとても満足している。パリを再度インディペンデントなデザイナーとして今シーズン訪れることにすごくエキサイトしているところさ」。

15年前に彼の最初のコレクションを発表して以来RAF SIMONSはエクストリームであることを保持してきた。メンズウエア界にて彼は常に影響力を持ち、そして最小限に世間に従順である(ラディカルではあるが誰もついて来ることが出来ない程の破壊的なスタンスではないという意味)。2005年からレディースも含めたJIL SANDERブランドのデザイナーに就任した際には、彼はまだ“有名ではないデザイナー”であった。しかし、様々な媒体に取り上げられることでファッション界以外でも有名なデザイナーとなったのだが、今でも彼のシグニチャーブランドは世界で50店舗でしか販売されていないカルトなブランドである。「いくつかのショップは僕たちに花を贈りながらも賛美と共に販売する事を、イタリアンカンパニーとの関係の終了と共に止めてしまった」。彼は言う。

RAFは現在、金銭的な面での新たなパートナーを探している。
「でも急いではいないんだ」。RAFは語る。「まずはこの状況をリカバーすることから始めて新しいパートナーシップへと向かわないとね。僕は組織としても状況としても現在は非常に良い形だと思っている。それはJIL SANDERのような大きな会社との取り組みで学んだことが組織の構築には大きく影響している。もし君が十分なお金を持っていてデザイナーを雇いブランドを構築するとしても、マーケティングとマネージメント、そしてセールスまで含めた組織構造が正しくなければ仕事に向かうことは出来ないよ」。

昼食を食べ終わった後にRAFは他のデザイナー達がそうであるように、彼のオウンブランド以外のデザイナーとしての仕事に関して、幾つかのメゾンからオファーされていた事を臆する事なく私に明かした。「何かファッション界のゴシップネタを知ってる?」。彼はそう聞いてくるので、幾つかの新しいネタを私はRAFに披露した。彼はこの会話に対して「内緒の話か…」。彼は一言のみを発した。これは私が持っているファッション界のゴシップネタに対して、業界のシステムが彼にも取り巻いている事での発言とも捉える事が出来る。

「僕は僕自身の事に対してとてもオープンだよ。そして僕は僕のファミリーと言える人たちと仕事をしたいと思っている。僕は皆に対して解りにくい人には、なりたくないんだ」。RAFは語る。
「僕は過去15年に渡って蓄積した携帯の電話番号を消去することなく保持している。そして彼らは僕にいつでも電話出来る…。僕はウィーンにある大学のファッション学科の先生をしていた事があってね、その時の学生達なんかにも会いたいよね。時々僕のスタジオに電話してくる人なんかがいるけど僕自身が電話に出るとビックリするみたいだ」。チームとしての仕事にこだわり、他の人間の意見にオープンなスタンス。これは彼の仕事における重要なポイントであるようだ。「例えば共にショーの構成を考えるとき、僕はアシスタントやインターン達に意見を聞くのがとても好きなんだ」。RAFは語る。「そして彼らがどう考えるかは、コレクションを構築する際の非常に重要な要素でもある」。

他のスタッフ達の意見を聞く事なく物事を推し進めるのはトラブルの原因となる、というのがRAFの意見である。彼はDIORのデザイナーJOHN GALLIANOがSTEVEN ROBINSONを失ったことを例に挙げて語る。「STEPHENを失って彼はとても寂しかっただろう。ネットで彼が一人でバーに佇んでいる写真を見て僕はそう感じた。もし自分の身の回りの友人達を突然失ってしまったら究極の寂しさを味わう事となると思う」「RAFは寂しかったことはある?」「いやそういうことはない。僕は子供のままに成長してしまったから自分自身が好きなんだ。でも仕事の時には、常に仲間といる事が好きだよ」。

ANTWERPにあるRAFの自宅は3フロアからなる1960年代に建てられたアパートメントである。入り口にある古いリフトは直接リビングルームへとつながっている。キッチンはウッドパネルで作られたオリジナルのもので以前のオーナーが組み込んだものであるが、これらは使われていない。バルコニーは建物の大きさ全てに渡っている。このアパートメントはこの街にある三つの大きな通りの中央にある。
「この場所の雰囲気が好きなんだ」。RAFは語る。「以前は殺風景な白いミニマルなところで仕事をして住んでいたけど、もう飽きてしまった。僕はミラノにも60’Sのアパートを持っていてね。そこもとても良いフィーリングだよ」 (ミラノではおなじ通りにMIUCCIA PRADAとDONATELLA VERSACEも住んでいる)。

彼のリビングルームは決してアートギャラリーのようなものではない。しかし、一つの壁にはアメリカンアーティストMIKE KELLEYによる大きな絵が飾られている。さらに中央の部屋には、大きな突き出した不安定な見た目のEVAN HOLLOWAYによるスカルプチャーがある。これはRAFが始めて購入した大きなアートピースである。そして階段下にはコンクリートで制作されたJIM LAMBIEによる作品と12インチのアルバムカバーがあり、非常に整然とした印象でまとめられている。

「これらの作品は自分でクリーンアップしているんだよ」。RAFは語る。「僕の母は掃除婦としてプロフェッショナルに生きた人だから清潔感は自分の血のようなものだね。しかしここANTWERPの家では掃除は終わることのない作業で、ミラノから戻ってくると又、ホコリだらけになっている。だから最終的にはメイドを雇ったよ」。

さらにアパートメントはスペシャルな家具で装飾されている。ダイニングテーブルとそれに合わせた椅子はGEORGE NAKASHIMAによるもの。クラブチェアとセットのソファはPIERRE JEANNERETによるもので、インドのチャンディーガル市で使う為に特別に作られたものである。「これらは今後、見つけるのがとても難しくなるよ」。RAFは語る。チャンディーガルは1950年代にLE CORBUSIERのユートピアシティー構想として選ばれた街である。長い間忘れ去られていたこの街も現在ではユネスコの世界遺産リストに登録されている。「街のほとんどはアートディーラー達に荒らされて何も残っていないような状態だよ」。RAFは語る。「これは悪い事であるし僕は非難されても仕方ないかもしれない。でもね、他の見方をすると僕たちがそれらを拾い上げなかったら彼らは全て燃やしてしまっていたと思う」。チャンディーガルの人達はJEANNERETのモダンデザインの美しさを見落としている。RAFは巨大なパイル素材の椅子の写真を僕に見せてくれた。それはまるでインドのオープンエアな場所を模したようなものに見えた。

RAFはドイツの国境から程近いところにあるNEERPELTというベルギーの北西にある街で生まれた。インダストリアルデザインをGENKという街にて学んだ彼は語る。「僕が学校で学んでいたと時にはヴィンテージデザインを失笑していたね」。彼は回想してさらに語る。「皆がPHILLIPPE STARCKのデザインにはまっていた。彼を知っているかい?ものすごいよね…」「では、、、RAFの家具デザインは優れていた?」「思い出せって?いや全然ダメだったね。僕は大きな計算機のようなチェスターフィールドスタイルの台車付きレザーソファーを作った事がある。唯一それはクリーンで宇宙船みたいで良かったけどね」。これらの作品をRAFは全く保持していないそうだ。「全ては友達にあげてしまった。多分僕の家族は幾つかのスツールを持っているんじゃないかな」。

その後RAFは、WALTER VAN BEIRENDONCKの下でのインターンとして家具デザイナーとしてのキャリアを歩み始める。そこで彼はパッケージデザイン、椅子、家具などを担当した。その際にVAN BEIRENDONCKはRAFをパリへと呼んだのであるが、そこで彼は初期のMARGIELAのショーを目の当たりにする。「僕がファッションを作るなんて思いもしなかった」。RAFは語る。「だって僕のクローゼットでファッションと呼べるものはDIRK BIKKEMBERGSの靴くらいのものだったからね」。

彼のメンズウエアへの階段はすぐに開かれ、1995年には自身のブランドを設立。そして1997年には早くも初のランウェイショーをパリにて開催する事となる。そこで彼のカルトでダークな世界観のコレクションはセンセーションを巻き起こすのである。スリムなテーラリング、KRAFTWERKからのインスピレーションによるショー構成、彼の話す言語そして若さ。2000年の1月にパリで行われた彼の8番目にあたるショーは私が始めて見たものであったが、これは非常に印象に残っている。コレクションタイトルを“CONFUSION”としたこのショーではブラック、ホワイト、グレーをメインカラーとして、数人のモデルはスポーツカーのデロリアンや黒いリムジンに乗って登場した。RAFは語る。「あれは僕の中でもフェイバリットなショーの一つだよ」。しかし現在の心境では「実はあの時、全てに飽き飽きしていたと思う。僕は31才で18人ものスタッフを抱えていた。全てはあまりにも早く大きくなってしまい逃げ出したい気持ちだったんだ」。

それでどうしたか?RAFは彼自身のメゾンをクローズしてしまいファッション界から逃れて安息を選んだのだった。しかし1年後には”RIOT,RIOT,RIOT”という復活にとても相応しいタイトルのもとにコレクションを発表している。このコレクションではとにかくレイヤー、レイヤーというルックが目立ち、フードブルゾン、ボンバーJKT、ビッグコートなどのアイテムを多用してモデルの顔はスカーフで覆われていた。それらはRAF独特のシャープなテーラリングにてまとめられており、PUNKイメージ(SEX PISTOLSのイメージ)をTシャツに用いて表現したものだった。しかし、それは薄汚れた行儀の悪さを表現したものではなかった。このラディカルなイメージは継続されるものではなかったが、メゾンRAF SIMONSの毎シーズンのコレクションにうまくミックスされる事となった。

RAFは常に自身のショーにおいてアントワープのストリートでハントした少年を起用する。彼はショーにおいてのコレクションを少年が着る服のごとくデザインするが、しかし少年の為の服とは考えがたい。
「君も知っているとおりティーンエージャーはジーンズにTシャツを着ているよね。でもそれは僕が作るものではないんだ」。彼は言う。「僕は人の青春期と成熟期の末端で起こる事の心理学的な側面に興味をそそられるんだ」。彼のコレクションは年老いた人々の服を若者向けのカッティングで製作したように見えるケースが多い。特に彼の初期のショーにおけるブラックスーツにグレーのカーディガン、ケーブルニット、ロングコートなどなど…。 しかしそれらは常にユースカルチャーからの影響下にある。MANIC STREET PREACHERSがセーターを着ている写真、NEW ORDER、そしてJOY DIVISIONの楽曲。反乱を連想させる様々なスローガンやセンスなどにRAFのイメージソースの根源がある。


昼食をとった後に幾つかの話をしてRAFは立ち上がり音楽を変えた。ここ2時間はTHE XXのデビューアルバムをリピートにてかけていたのだが…。「ちょっと戸惑ったかい?」。彼は言う。「でもね。これが昨年ずっと聞いていた唯一のアルバムなんだ。常にかけていたね。初めはあんまり好きではなかった。なぜなら憂鬱になるような音だからね、まるでANNE CLARKみたいだと思った。しかし逆にそこが僕にとってはフックとなった、これは新しいクラシカルミュージックと言えるね。決して退屈なものではないよ」。

JIL SANDERのクリエーティブディレクターとして抜擢された2005年までRAF SIMONSはレディースウエアをデザインする事はなかった。そしてこれは衝撃を巻き起こす要因ともなった。
「人々は思っただろう。“このレディースウエアをデザインしたこともない小僧は何者だ”とね」。RAFは回想する。「これはチャレンジだったんだ。一部の人達は懐疑的だったけど、逆に一部の人達には快く迎えられた。しかし僕はやれると思っていた」。RAFはJIL SANDERの美学のさらなる進化を試みる事が好きであるが、JIL SANDERのヘリテージデザインを正確に受け継ぐ事も大事にし自身のインスピレーションを構築した。「僕は僕自身を全うする必要がそこではあった。しかし他方でヘリテージデザインを繰り返す必要もある・・・。ファッションジャーナリストは簡単に、彼らは新しい局面へ向かった、と書けるでしょ。そういう僕も新しいものが好きなんだけどね」。

数時間後に彼はミラノへ飛び立つ、その足で、来るJIL SANDERのメンズウエアコレクションのフィッティングを二日掛けて行うのだ。一日目はアクセサリーのチームとのミーティング、そして二日目は9月に行われるJIL SANDERレディースウエアのショーフィッティングも行わなければならない。

RAFのプライベートライフにもちょっと触れてみたい。
「僕の仕事のスケジュールは強烈だよ。でも、こなしているけどね」。彼は語る。そう彼は独り者である。
「多分僕は共に過ごすのに適切な人格の人に会っていないのかもね。でも一人でいるのは好きなんだよ。リレーションシップだけで人生が良くなるとも思わないけど明日にも起こるかもね。誰か解る人いない?神のみぞ知るかな。もし時間があれば解るかも…。でも僕は山羊座の人間だ、そして皆は山羊座の人生は後追い型であると…。僕らはシリアスな星の下に生まれた、そして簡単に年をとる。解るかい?50才になった時でも、無敵なティーンエージャーみたいに人生を突き進まなくてはならない」。
「僕は準備出来てるけどね」。RAFは笑う。「正直、自分は25才のままの精神状態だよ。肉体的にはないけどね。しかしマインドは25才のまんまなんだよ」。

ここで私は彼に、二つのレーベル(JIL SANDERブランドとRAF SIMONSブランド)について、世界一規律正しい人間になることをお勧めしたいと思った。年に4回のメンズコレクションとクルーズ、リゾート、そしてJIL SANDERのレディースウエアプレコレクション。

「そうだね。僕は規律正しい人間かな」。彼は言う。「最初の5年間はこのスケジュールがこなせるかどうかを疑っていた。皆はコレクションの為に十分に時間を費やしたいと考えるだろう。しかしそれは許されないという状況。しかし僕は経験によりそれらをこなすことを学んだんだよ。実はそれはトレンドを作るという意味でもあり僕を魅了する事でもあるんだ。もし何らかのコレクションを製作したらすぐに距離をおく、これは簡単に出来るようになった。でもこれは僕の助手達を悩ませるものでもある。彼らにとっては“うるさい!”といったところだろうね。サマーシーズンのショーは、もうすぐだけど、もう既にウィンターシーズンの内容は考えてある。I WANT NEW , NEW , NEW , NEW , NEWという感じだよ」。

今日のRAFの服装はペンキがちりばめられたALEXANDER McQUEENのデニムショーツ、どこかのスケートブランドのチェックシャツ、そしてRAF SIMONSのサンダル。彼は自身のブランドのものを着用するより他のブランドのものを着るのが好きなのだそうだ。「もちろん僕がデザインを始めた理由は自分が考える良い服がなかったからなんだけど、時間と共にRAF SIMONSは”ブランド”となり自分自身とブランドは別のものとなってきた。この二つは同じにはなれないよ。僕はデザイナーがデザイナー自身の服を着なければいけないというルールはないと思う。僕は思うけどRICK OWENSやSTEFANO PILATIもそうだよね。でももし僕が全てを自分で着たいと思ったらどうだろう。RAF SIMONSはもっと簡単なブランドになってしまう気がする。僕はRAF SIMONSというブランドの服は心理学的で知覚的なものであって欲しい、と思っているんだ。そして男達が自分自身を服と共にどのように見るか、ということが気になる。僕は”THE MIRROR”(鏡)というコンセプトが好きなんだ。これは僕自身の事とは全く異なる。つまりブランド自体はエクストリームな存在だけれども、自分自身はエクストリームではないという事」。

彼は2011SSのコレクションにおいて数年前に発表した過剰なバギーシルエットのフレアートラウザー、ジップアップのトップス、そしてホワイトとパステルカラーを多用した。

「このコレクションでは僕が着るような服は無くて、若い子がいかにフェミニンで両性具有的になれるかというテーマを追求したもの。そしてMARTIN MARGIELAのファーストコレクションからの引用もある。これを僕が着ると思うかい?」。しかしRAFはJIL SANDERを着ることはいとわないようだ。「僕は15本も同じトラウザーをオーダーしたよ」。彼は語る。「そしてPRADAも好きだ。MIUCCIAの仕事は素晴らしいね」。

ファッションデザイナーをこなす傍らRAFは異なったキャリアとして、彼の友人であるCHRISTIAN CIGRANGによるベルギーのSHIPPING MAGAZINEにてアートバイヤーもこなしている。
私が始めてRAFに出会った2001年にアムステルダムにて彼にインタビューした事があるが、彼は黒いボンバーJKTをネイビーのクルーネックセーターの上に羽織っており、ボトムスにはブラックジーンズと白いレザースニーカーを合わせていた。インタビュー後に町中へ自転車で繰り出したのだが、RAFはCIGRANGのバイヤーの仕事の一環として幾つかのギャラリーを訪ねたがっていた。

最後の訪問先であるPRINSENGRACHTにあるPAUL ANDRIESSEギャラリーに着いたのは昼頃だった。RAFは特にロンドンを活動の拠点とするオランダ人アーティストMICHAEL RAEDECKERの刺繍ペイントに興味を持っていたが、これは安いものではなかったようだ。RAFはギャラリーのアシスタントにこのアートピースについて聞いてみたのだが、彼女はMr. ANDRIESSE自身に聞いてくれと言ってきた。そこでRAFはバックオフィスにあるANDRIESSEのオフィスへと一直線に向かったのだが、彼はRAFのフーリガンのようなボンバーJKTとブラックジーンズそして白いスニーカーに目が行ったようだ。

「私はアポイントなしでは客には会わないぞ」。ANDRIESSEは言った。
そこでRAFは「OK。では今日アポイントを取りたい」。ANDRIESSEの答えは「NO !」。
RAFはこの仕打ちに出鼻をくじかれ、そして当惑した。もちろん彼がこのギャラリーに必要なものを購入するために再度訪れる事はなかった。

このギャラリーに訪れた際のことを思い出すとRAFは「そうだね。僕たちはおかげでRAEDEKERの作品を買う事は出来なくなってしまった。彼の仕事を僕が大好きでもね!」。しかし、このシーンを思い起こす事はないそうだ。「それがアートの世界で働くという事だよ。君は君のポジションで生計を立てている。でもそれは僕がRAF SIMONSである事とは関係のない事だよ。そしてアートピースを購入する際も、他のものをバイヤーそしてキュレーターとして探せばよいだけ。でもね、ライセンスが欲しいのは今でも変わらないよ」。

このようなアートに対する世界のあり方は、ファッションのバカげた状況にも通ずるとRAFは考えている。「僕は自分がファッションという世界で年を取っていくとしても、LAGERFELDのようには考えられないし出来ない。彼のような大騒ぎですべてが早く過ぎ去っていくようなやり方は人生において普遍的とは言えない。しかし僕自身が年を重ねたときに変わらず素晴らしいアートピースを探している姿は想像出来る」。MARTIN MARGIELAとHELMUT LANGについてRAFは言う。「なぜMARTINとHELMUTが若くしてファッション界から遠のいたか解る気がするよ」。

ここ数年RAFのアートプロフィールは著しく上がってきた。これはCOLLECTION CIGRANG FRERESでのバイヤーとしての評価によるものである。彼はCIGRANGと共にアートコレクションを構築することで自身のコレクションも充実させているようだ。「僕は結果的にアートにファッション以上の興味を持っているようだ。僕の同僚がiPadをくれたんだけど、彼女と一緒にオフィスで夜を徹してart net.comを読んで探し回り、さらにTHE NEW YORK TIMESオンラインのアートレビューまで読みふける始末だよ」。

VENICEで開かれるART BIENNALE開催一日前にRAFに会った際に彼はイベントに対して、たとえ7月の中旬までしか滞在できないとしても究極にエキサイトしていた。その際に彼は会うなりアドバイスしてきた。「まずやることはGIARDINI(開催地)に着いたらCANADIAN PAVILIONに脇目もふらず向かうこと。彼らは僕が大好きなSTEPHEN SHEARERの作品を持ってるよ」。実はRAFはここ数年SHEARERの作品を購入することを望んでいるのだが、どうにも運が回ってこないようだ。 RAFはSHEARERが描くロングヘアーの人物に魅了されているそうで…。「以前LONDONにあるSTUART SHAVE MODERN ARTを通じてSTEPHENの作品を一点買う機会があったんだけど。そのチャンスを逃した事をとても悔しく思っているんだ。その時はもっと繊細な技法の絵が好きだったんだね。今はSHEARERの作品が自分のベストなのだけどね。でもそれがアートというものだよ」。RAFは言う。そして事実それはファッションも同じで、初めは動揺してしまうようなものでも最終的には最大に好きになる可能性はあるという事。

今年のファッションショーのスケジュールの都合でRAFはART BASELイベントに行けなかったようだ。「このイベントを逃したことは腹立たしいね。毎年行っていたのに!でも仕方ない、今はショーが大事だよ」。事実彼は3年前のART BASELイベントにてJIL SANDERと出会っている。

Ms. SANDERが名前を冠したレーベルを2004年にリタイアして以来、ブランドを引き継いだRAFは彼女に会う事を夢想していたそうだ。彼を取り巻く人々はそれを良いアイディアだとは思っていなかったとしても…。そしてBASELでのある日に彼は友人達とホットドッグを食べていたのだが、友人の一人であるアーティストのGERMAINE KRUIPと共にMs. SANDERが近くのテーブルにいるのを見つけた。
「そのときは自分では確証を得られなかったからGERMAINEに確認したよ。あれJILだよね。するとGERMAINEは”YES確かに彼女だ”と答えた。JILは、なんと一人でサングラスを掛けて座っていたよ。そして程なくして僕を見たんだが、その10分間はとてもぎこちない状況だったよ。僕とJILは互いを近くで見ながら僕は次の行動を考えていた。そして思った”OKAY俺!俺はジェントルマンになるんだ”とね。僕は彼女の方へ歩いて行ったんだけど、たったの20メートルの距離を歩いているのに気分はモーゼが砂漠からの大移動をしているかのような気分だったよ。オーマイゴッド!僕は彼女のテーブルに着いてしまった!彼女はサングラスを外して僕と握手をしてくれた。そして彼女のメゾンを取り扱うPRADA GROUPのやり方について話し始めた。そして裁縫師が職を失った事、さらにはアトリエも閉めてしまった事などを話してくれた。そして僕と僕の友人達も彼女の友人達と共にテーブルに着くことが出来て、僕のことを彼女の友人達に“彼は私のブランドをとても良くしてくれているわ。彼のやることに私はとても満足してるの”という言葉と共に紹介してくれたんだ」。

6月17日の金曜日、JIL SANDERメンズウエアショー目前である。RAFはブランドの本社があるミラノで最終のフィッティングを行っていた。彼は同じくMcQUEENのデニムショーツにJIL SANDERの黒いシャツ、そしてPRADAの黒いプラットフォームソールを用いたエスパドリーユという出で立ちである。

セットプロデューサーとしての一日であるRAFは、部屋の後方にあるテーブルに陣取っている。モデル達はアシスタントによりスクリーンの裏側にセットされたドレッシングルームで着替えさせられる。程なくしてRAFはリモートコントロールを手に取り音楽を部屋に流し始める。モデルは音楽に合わせてRAFの方へとウォーキングを始める。最初のモデルは若いジェントルマン風のルックである、モデルの名前はPHILIP。しかしすぐにRAFは音楽を止める。そして15秒後にPHILIPはウォーキングを止める。「気に入らない」。RAFは言う。「彼にはスネークプリントのTシャツと黒いショーツ、そしてビニールコートを着せて見てくれないか」。PHILIPは提案されたスタイルにチェンジする。そして音楽がスタート、さらにウォーキングもスタート。そして音楽オフ、RAFは言う。「ビニールコートは違うな。ボクシージャケットに変えてみて」。PHILIPはボクシージャケットに着替える。「いや、ボクシージャケットは違うな」。

フィッティングは一日中続く。幾つかのルックは皆で再検討する必要があり、RAFは後方のテーブルから指示をする。約20分くらいで彼のアシスタント達は小さなスネークスキンのドキュメントウォレットをモデル達の首にネックレスのごとくさげていく。垂直に掛ける?それとも斜めに?高い位置?低い位置?ジャケットの下?またはジャケット上に? しかし決定は時々、迅速さを要求される。そしてモデル達は再度スクリーンの裏側へ。RAFは音楽を流し始める、ウォーキングを始めて4分程でRAFは「LOVE !」と言った。これでルックは完璧だ、という意味。ところで、彼に履かせる靴は?

これがショー前日に行われたショールック決定における手順である。12名ほどのアシスタント達はたくさんのシャツやバッグなどを持ち、終わる事なき準備をカプチーノを飲みながらこなしている。祝福の為の花束が彼らの基に届く。そしてメークアップチームも到着する。「今回はナチュラルだけれどもペールっぽいものにしたいんだ」。RAFはオーダーする。ヘアスタイルは予め決まっていてバケツの水を頭から被ったようなウエットヘアーにする予定だ。RAFは語る。「これはもし酸性雨の中に足を踏み入れたらという想定。BLADE RUNNERという映画でのRUTGER HAUERを想像すると良いよ」。

軍物のようなレザーシューズはJSのロゴマークとヒール部分にチョークで手書きをしたようなサイズ表記が入っている。「これは僕を含めてアーミーシューズを思い起こさせるようなポイントだよ。そしてサイズ表記はJEANNERETのチャンディーガル用にデザインした家具からのインスパイア-から生まれたもの」。RAFは語る。

彼の自宅にあるヴィンテージピースの数々はJIL SANDERコレクションのインスパイア-ソースとして多用されている。そしてスネークスキンのプリントTシャツの背中にはJIL SANDER MENSWEAR SHOW S/S2012の文字がプリントされている。「これはHELMUTLANGのTシャツにプリントされていたHELMUTLANG BACKSTAGEからのインスパイア-?」「その通り」。RAFは語った。「ファッションの仕事を始めた頃に電車でパリへ向かってHELMUTとMARTINのショーに何とか潜り込もうとしたんだ。インビテーションをコピーしてね。そしてショーの後にモデルが出てくるんだけど、彼らはお揃いのBACK STAGE Tシャツを着ていてね。自分用にも一枚欲しかったんだけど・・・。そうだね、このTシャツは正に彼のイメージを表していた」。

翌日JIL SANDERのショーは幕を閉じる。RAFはすぐにパリへとRAF SIMONSのショーの準備の為に旅立った。たったの7日間しか準備期間は無い!

パリでのショーも終わりバックステージでの彼は疲れきってはいるが充電完了状態だった。デザイナーとしてブランドのREBOOTING(再起動)をクリアに見せることが出来たからだろう。「クリーンアップ、クリーンアップ、クリーンアップ」。RAFは言う。「クリーンアップして自分のベーシックであるレーベルへと戻らないとね。これは今までの長い期間の中で最もありのままを表したショーかもね。次のシーズンとはかなり違ってるよ」。では次の2012年1月のショーの内容は決まっているのか?「次はエクストリームなショーになるよ」。

彼の母親のALDAは常に彼のショーを見守っているそうである。「RAFは優しい子ですよ」。彼女は語る。そして僕が後ろの席に着いた時に、「そして今でもとても優しい子です」。RAFの母は少し照れながら話してくれた。「本当に・・・。彼女は何を言っているんだ!」。RAFは言った。私はRAFの母親に「僕は興味本位で彼の事を聞く訳では無いですよ。僕はゴシップや秘密を知りたい訳ではないですから」。すると彼女は「オー。でも私はRAFの秘密とかは、ちっとも知らないわ」。

彼女が教えてくれたのだが子供の頃のRAFは動物に優しい子だったそうだ。「RAFはいつも小さな鳥やら群れからはぐれたカモなんかを連れて帰ってきていたわ。ある日とても弱ったデンマーク犬と一緒に帰って来てね。どうも熊に襲われたみたいなんだけど、結局あの犬とは11年間も一緒に暮らしたわ」。

近年RAFの母親はMARGIELAの母親と親しくしている。彼女達は互いの知人を通して知りあったそうだ。しかもMARGIELAの母親はファッション界に息子を持つ母親達と知り合うのが大好きだそうだ。実はRAFもこのつながりでMARGIELA自身と過ごした事もあるのだ。「彼は僕が会ったことがある人々の中で最も心優しい人だ」。RAFは語る。「しかしエクストリームだ!オーマイゴッド。MARTINは最大級にエクストリームだ」。

RAFと僕は彼のショー二日後の6月27日、とても暑いパリで会った。僕たちは仮のショールームに座っている。大きなアーティストのスタジオであるここは18番目のパリの行政区にある。RAFは前日の遅くまでショールームへの搬入とコレクションのディスプレイを行っていた。今日は初日のバイヤー達のアポイントが入っており彼らがオーダーを入れる日だが、RAFはさらなるヘルプスタッフを新規リテーラーや現状の取引先への対応の為に最終的に雇ったそうだ。このシーズンは非常に実りのあるものとなりそうである。

RAFがコレクションのディスプレイを完了する際に、彼に全てのデザイナーのコレクションをオンラインで見てもらい意見を聞く機会に恵まれた。これらの話は内密ではあるが少し披露したい。RAFが考えるに今シーズンは幾つかのオフスケジュールコレクションを除いては、決してエキサイティングな内容ではなかったようだ。「過剰なスタイリング・・・。これは僕にとってはファッションではない」。RAFは語る。
「では今回のフェイバリットショーは?」「僕が感銘を受けたショーはKIM JONESのVUITTONでのデビューショーかな。僕が考えるに彼は素晴らしい仕事をしたと思う。このコレクションにはとても共感した。VUITTONにとってパーフェクトな内容だったと思う。君も店に買いに走りたくなるはずだ。RICK OWENSも同じく強力だった。神は彼に男達にロングドレスを穿かせる技を与えたようだね」。

二週間後、僕たちはBERLINに居た。RAFは新しいJIL SANDERのスネークスキンプリントTシャツをJIL SANDERのブレザーの下に着込んで、ボトムスにはJIL SANDERのトラウザーにPRADAの靴を合わせていた。彼はMERCEDES-BENZ’sのニューカーの発表会と併せて様々なセレブを招いてディナーを介するというイベントのキュレーターを任されている。RAFのリクエストはMICHAEL CLARKダンスカンパニーとFISHERSPOONER、THESE NEW PURITANSがパフォーマンスを行い、さらにデザイナーのPETER SAVILLEが所有しているヴィンテージMERCEDES-BENZ’sをディスプレイし、RAFの友人であるGERMAINE KRUIPの2つの新しいスカルプチャーを展示するというもの。そして、彼と共に数年に渡って仕事をしてきた古くからの友人でありアーティストであるPETER DE POTTERはBERLINER CONGRESS CENTERが正面のウィンドウにフォトコラージュを施す。私はRAFに「車をデザインしたいと思ったことはあるか」と聞いてみた。「やってみたいね」。彼は臆することなく答えた。

RAFは宇宙程の大きなチームは持っていない。それは、全ての事柄を一つのシーズンのファッションとして纏め上げる為に動きが取りやすいように考えてのことである。6ヶ月で4つのコレクションを作り上げなくてはならない。現在RAF SIMONSは権威あるHYERESファッションフェスティバルの審査員として抜擢されており、さらにはBERLINでは週末にMERCEDESのイベントへの出席を予定している。しかしRAFはBERLINで全てを見ることなくMILANへと飛び立った。VENICEで開催されるBIENNALEを見る為である。そしてこの数週間はANTWERPに居る。この忙しい彼のワークスタイルは継続されて行くのである。RAFの9月に発表されるJIL SANDERレディースコレクションは彼の正式なデザイナー契約上で発表される最後のものである。彼は現在、契約の継続をネゴシエイトしているという。しかし現在の尊敬すべきデザイナーの一人であるRAF SIMONSは、他の様々なメゾンから誘いが掛かるのではないだろうか。フランスの大きなメゾンに抜擢されるとか…。

しかし、彼がまずやる事はサウスイタリアに8月に行くこと。そこには気の許せる友人達が住んでいる。「僕は幾つかのショーツとラップトップPCを持っていくだけだよ。本当にそれだけ!」。私は「本は持って行かない?」と訪ねたら、「あー。少しは持っていくかな。でも僕は愛読家ではないからね」。そこには果物の木、新鮮なイチジクとマーケットの魚。そして常に変わらず迎えてくれる友人達。RAFは招待される為に行くのではないと言う。「僕はそこに行って座っているだけだよ。そして食べて新鮮なストロベリーカクテルを飲んで、海を見つめるだけ・・・」。

ENDS